2012年6月17日日曜日

勾当台公園(3)

林子平像
前回に続いて勾当台公園の銅像の話です。今回は勾当台バス停の側に立っている林子平についてです。仙台には子平町という町名があるように、名前はなんとなく知られていますが、どんな人物であったかは以外と知る人は少ないのではないでしょうか。
林 子平(はやし しへい)(元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日))は、高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられた江戸時代後期の経世論家です。「奇」は「傑出した」という意味であり、もちろん「奇妙な人物」という意味ではありません。経世論(けいせいろん)は、近世(江戸時代)の日本で「経世済民」のために立案された諸論策、もしくはその背景にある思想とあります。
著書の『海国兵談』では「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」と喝破して当時の人びとを驚かせました。(簡単にいえば日本橋の水とロンドンのテームズ川の水は海でつながっている、だからきちっと対策を講じなければ外国から簡単に攻められるので大変である、ということでしょうか?)当時鎖国政策で国際的に孤立していた日本に、外国の脅威と国際化の必要性を主張した初めての人です。「海国兵談」は1791年仙台で出版されます。しかし幕府はいたずらに世間を惑わす行為としてこれを取り締まり、版木を没収して子平を罰しました。子平はまもなく失意のうちに世を去ることになります。子平の処罰のわずか4ヶ月後にロシア使節ラックスマンが根室に着き、子平の心配が現実のものとなったのは歴史の皮肉です。
今回の東日本大震災や原発事故の例を見れば(林子平と同じように、前から津波や、原発の危険性に警鐘をならす人はたくさんいました。)なにやら考えさせられる話です。


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