2013年2月27日水曜日

定禅寺通り付近の地名 本町

本町の地名標識
東三番町通りより宮城県庁を望む

 今回取り上げる町名は本町です。
 本町は、日本全国に多数見られる地名です。一般的には、本町の名称は新町(新開発地)に対する地名で、昔から地方開発の拠点となった所を本郷とか本町と呼んだようです(仙台地名考:菊地勝之助著)。ほんちょう、ほんまち、もとまちなどの呼び名で、全国に多数(200以上)の地名があります。東北地方の県庁所在地では、青森、山形、宮城にその地名があります。宮城県内でも、白石市、角田市、塩釜市、石巻市、気仙沼市などの中心部にみられます。
 仙台市の本町の地名は、戦後新町名を選考した時に、仙台市の中心部である県庁周辺地域の町名を、歴史等も踏まえて仙台の中央地区として「本町」としたようです。
 本町は一丁目から三丁目に別れ、勾当台通り(二番町通り)の東側、定禅寺通りをはさんで、北側の県庁がある付近が三丁目、南側の錦町公園付近が二丁目です。五番町通りをはさんで、錦町公園の向い側(東側)が一丁目になります。




2013年2月20日水曜日

定禅寺通り付近の地名 一番町

仙台三越前の住所表示
朝の一番丁通り
今回は以前にもご紹介した、七夕でも有名な一番町の地名について、再度ご紹介します。一番町、一番丁どちらが正しいのか?正解はどちらもある意味で正しいです。
 町名は一番町で、通り名は一番丁通りと使い分けるのが正解のようです。江戸時代の侍町の名残りである「丁」が、町人町を示す「町」に書き換えられ、「丁」は通りに名を残すこととなっているようです。
 一番町(いちばんちょう)は、仙台市青葉区の東一番丁通り沿いにある町名、またはそこに存在する商店街のことです。仙台市都心部に位置し、同市を代表する商業地のひとつです。現在の一番町は、かつての東一番丁を起源としています。区域内を南北に走る一番丁通りが、かつての東一番丁です。
 一番町の地域は、東は二番丁通り、西は晩翠通り、南は柳町通り、北は定禅寺通りに囲まれた区域で、一丁目目から四丁目に分かれています。その中で、定禅寺通りの南側に隣接し、稲荷小路と二番町通り、広瀬通りにはさまれた区域が四丁目です。
 仙台地名考(菊地勝之助著:仙台•宝文堂)には、仙台城下創設の際に、芭蕉の辻を中心として、東に順次割り出されたのが東一番丁から二•三•四•五番丁であり、昔は東一•二•三番丁ともに百騎丁といったと記載されています。このことより、東一番丁は江戸時代には中級以下の家臣が住む侍町であったことがわかります。
 その後、明治時代になり、困窮した士族(旧仙台藩士)の失業対策として商売をさせたのが始まりで、以後、東一番丁沿いには、芝居小屋、映画館、寄席、喫茶店、芸妓置屋、露店などが立ち並ぶようになり、藩政時代以来の商業中心地だった国分町の裏町、新興の商店街として賑わうようになったようです。
 戦後、アーケードが完成し、1979年には自転車を含む車両の進入規制がしかれて歩行者専用道路化し、買物公園としてアーケードの改装、街路樹やストリートファニチュアなどが設置され現在にいたっています。



2013年2月13日水曜日

定禅寺通り付近の地名 国分町

国分町通りの看板
晩翠通りを隔てて国分町方面を望む

 春日町、立町から晩翠通りを隔てた向い側の一画は国分町です。国分町といえば、東北随一の歓楽街ということで有名ですが、もともと江戸時代には仙台城下町における奥州街道沿いの町人町として、大町とともに商業の中心として栄えた町です。
 国分町の名前は、伊達政宗以前にこの地を領有していた国分氏にちなんだ名前です。仙台地名考(菊地勝之助著)によれば、”国分町は国分荘を領有していた国分氏に属していた町人等が形成した町である”とあります。国分氏は、南北朝時代から戦国時代の末まで、陸奥国分寺付近から宮城郡南部に勢力を張った武士の一族です。伊達政宗の時代に伊達家に臣属しましたが、正宗の不興をかって滅亡し、今は国分町にその名を残すのみです。
 その後、明治以降はオフィス街として発展し、現在のように2丁目が東北随一の歓楽街となったのは戦後のことです。
 戦後の新町名の国分町の地域は、広瀬通りより南の一丁目、広瀬通と定禅寺通りの間の二丁目、定禅寺通りの北側の三丁目に分かれています。我々がイメージする国分町は二丁目です。ちなみに、仙台市役所も国分町です。