ケヤキ並木が芽吹き始めた定禅寺通り |
定禅寺通りについて
定禅寺通は、仙台市青葉区にある「杜の都・仙台」を象徴する並木道の1つであり、同市で開催される都市イベントの会場となることも多い道路である。仙台市都心部を東西に貫き、西公園通りとのT字路から駅前通りとの変則四叉路までに及ぶ。
1.定禅寺通りの名前の由来は?
1601年(慶長6年)、仙台城の鬼門封じのために「定禅寺」が開基され、その参道として整備されたのが現在の定禅寺通りの始まりとされる。江戸時代は、「定禅寺通」および「定禅寺通櫓丁」が存在していたが、第二次大戦後に幅12m
のそれらの道路を46mに拡幅し、新たに植栽を施すなどの整備をした。その後両側などを合わせて「定禅寺通」の愛称名がつけられた。
2.定禅寺はどこにあるか?
定禅寺は、かつての仙台藩・陸奥国領仙台城下町にあった真言宗の寺。現在の青葉区本町3丁目の仙台合同庁舎の敷地を中心に、宮城県庁舎にかけて寺域が広がっていた。1601年から、伊達政宗の命により、仙台城及び仙台城下町の建設が始まるが、定禅寺も同年、同城の鬼門封じ(注:北東の方角)のために開基された。そのため、段丘崖を上がる階段、および定禅寺は、仙台天守台から北東に一直線に引いた線上に一直線に並んでいた。仙台藩時代は「一門格」に選ばれる格式の高い寺であった。
明治維新後の1870年に定禅寺は炎上・焼失し、戊辰戦争により仙台藩という後ろ盾を失った定禅寺はその後復興することができず、1873年に廃寺となった。
3.けやき並木について
東二番丁通りより西側部分は、ケヤキの街路樹が、通りの両側の歩道にそれぞれ1列ずつ、中央分離帯に2列の計4列並んでおり、枝葉が通りの上部の全てを覆っている。その景観の美しさから、日本の道100選に選ばれている。
戦後空襲によって市の中心部が焼失したため、戦災復興事業の区画整理により、新設されたのが青葉通りである。それ以外の広瀬通、定禅寺通、晩翠通り、二番丁通りなどはいずれも既存の道路を拡幅し、現在の市の中心部が形作られる。昭和25年(1950年)青葉通りが完成、少しでも潤いをもたせようと、中央分離帯にシュロ、サツキなど約200本が植えられる。これが街路樹の始まりで、紆余曲折を経て、最終的には青葉通り全体がケヤキ一色になる。定禅寺通りでも最終的にはケヤキが採用され現在にいたっている。当時は、市長や担当幹部の意見の食い違いがあったようであるが、現在のケヤキ並木をみてどう思うだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿