2013年1月30日水曜日

定禅寺通り近辺の地名 桜ヶ丘公園

定禅寺通りより西公園通り方面を望む


  定禅寺通りを西公園通りに突き当たった向こう側は桜ヶ丘公園という地名です。西公園通りの西側、北は定禅寺通りの突き当たりの市民会館から、南は旧仙台城大手門跡に続く大橋通りまで、西公園(桜ヶ丘公園)の一帯をいいます。
 仙台地名考(菊地勝之助著)によれば、桜ヶ丘公園一帯は、伊達藩の藩政時代には片倉小十郎や伊達安芸などの大身の家臣の屋敷が並んでいたとのことです。明治になり今の西公園の丘に桜馬場がおかれたため、この地一帯が公園用地となったときに桜ヶ丘公園と称したと記載されています。
 桜ヶ丘公園はかつては、天文台や市民図書館などの施設が置かれていましたが、今は移転してしまい、静かななたたずまいをみせています。


2013年1月20日日曜日

定禅寺通り近辺の地名 立町

定禅寺通りより本材木町通りを望む
立町の住所表示

今回は前回ご紹介した春日町と定禅寺通りをはさんで向いあう立町です。現在の住所表示の立町の区域は、北は定禅寺通り、南は広瀬通り、西は西公園通り、東は晩翠通り(旧細横町)に囲まれた区域です。現在の新町名の立町の名前は、”由緒ある御普代町の町名である立町をそのままとって命名された”(菊地勝之助 仙台地名考)とされています。
 御譜代町(ごふだいまち)は、江戸時代の仙台藩の仙台城下町で尊重された6つの町人町の総称です。大町、肴町、南町、立町、柳町、荒町で、仙台の町人町の中で上位に置かれ、江戸時代初めには商業上の特権を与えらていたといわれています。(フリー百科事典ウイキペデイア)。伊達家はもともと福島県の伊達地方が本拠地であり、仙台を開府した伊達政宗は最初山形県の米沢が居城であり、その後、岩出山を経て、仙台に移ってきました。その時一緒に移ってきた町人衆が御譜代衆です。旧町名との関連性はわかりませんが、現在でも米沢市には立町通りや立町の地名があります。
 区域を南北に貫くのが、本材木町通り(写真)です。仙台藩時代には材木町(材木を扱う町)であったが、材木町が北材木町(現在の春日町付近)と南材木町に移るのに伴い、本材木町と呼ばれるようになったといわれています。(菊地勝之助 仙台地名考)

2013年1月13日日曜日

定禅寺通り近辺の地名 春日町

木町通り(北材木町)
春日神社

 今回は定禅寺通り近辺の地名を取り上げてみます。今回は春日町です。
 当店(定禅寺ハーブギャラリー)付近の地名は春日町といいます。仙台地名考(菊地勝之助:宝文堂)によれば、春日町という町名は、旧町名の木町通•北材木町•北一番町•常磐町•定禅寺通櫓丁•跡付丁の各一部を調整の上合併して成立した新町である、とあります。場所的には、現在の西公園通りと晩翠通りに囲まれた定禅寺通りの北側のエリアで、北は北一番町付近までをさします。
 新町名の表示は、戦後仙台市の発展に都市整備の一貫として昭和39年より実施されたもので、新町名は従来の名称を基にするが、新たに付ける場合は、簡明なもの、歴史的に由緒のあるもの、親しみ深いもの、語調のよいものなどを選択し採用されました。
 春日町の地名は、域内にある春日神社の神徳にあずかろうとつけられたといわれています。春日神社(写真)は、源義経が奥州に下ったさい同社に詣でここの柳に駒をつないだと伝えられている古い神社で、もともと今の立町内に鎮座していたものを藩政時代に北材木町(現在の場所)に遷座したものです。
 現在の通り名(北材木町通り)に残る旧町名は、藩政時代は木材専業の町人町で、後に北目町、新伝馬町などとともに伝馬の宿駅として重きをなしたと、仙台地名考には記載されています。
 春日町の地名は全国各地にあります。フリー百科事典ウイキペデイアにも約100近くの町名が記載されています。域内にある春日神社にちなんで付けられたものが多いためではないかと思われます。
 ちなみに、春日神社(かすがじんじゃ)は、奈良県奈良市の春日大社を総本社とし、「春日」を社名に持ち春日神を祭神とする神社で全国に約1,000社あるといわれています。


2013年1月5日土曜日

元日の朝の定禅寺通り

新年おめでとうございます。今年の1回目は元日の朝の定禅寺通りです。今年の元日は天気もよく、穏やかでした。定禅寺通りから昇る朝日を撮影したかったのですが、林立するビルに隠れてなかなか撮影できませんでした。
元日の朝の定禅寺通り
下の写真は、定禅寺通りの東のはずれの駐車場で撮影したビルの谷間の朝日です。